雲心寺について

About Unshinji Temple

名古屋三大仏が見守る寺

浄土宗遣迎山浄土院雲心寺は、元文四年(一七三九年)に開基されています。
当時の本尊は、一寸六尺(約四.八メートル)の阿弥陀如来です。
建中寺の大基上人の発願で京都の仏師・山本茂助によって文久三年(一八六三年)に製作されたもので、知恩院阿弥陀堂本尊を模したものと言われ、寄木造りに金箔を施した荘厳な姿です。
文久四年(一八六四年)に行われた開眼供養には、常行念仏一千日の法要がなされ、当時の金で三百枚を要したと伝えられています。
昭和三十二年には、名古屋市文化財の指定を受け、名古屋の三大仏のひとつとされています。

  • 伽藍 本堂

    京都・法然院を模したつくりでご本尊を安置する棟と、参拝する棟とが分かれています。

  • 伽藍 山門(鐘楼門)

    境内に入る門。およそ三十三平方メートル、本瓦葺き二層で、梵鐘を吊る建物でもあり、鐘楼門ともいう。形状は竜宮門。楼上に十六羅漢を安置しております。

  • 仏像 本尊

    丈六尺阿弥陀如来坐像(木造寄木造)
    仏像の背丈 (丈量 ) の一基準。仏は身長が1丈6尺 (約 4.85m) あるといわれることから仏像も丈六を基準とし,その5倍,10倍,また2分の1などに造像された。坐像の場合の丈六像は半分の約8尺 (2.43m) です。

  • 縁起

    雲心寺は遣迎山(けんこうざん)浄土院と号し浄土宗である。
    この寺の前身は知多郡の清水村(現在の東海市荒尾町)にあった浄土宗・慈悲山普門寺であり清水村の丸根に通称一本松と呼ばれる地が普門寺の跡と伝えられている。この寺は熱田に移転後は観音堂のみが残り寺は村内に移り尼寺となった。今は知多新四国八十五番札所の清水時(せいすいじ)がそれである。

    名古屋の伝馬町(現 中区錦一)の商人で萱津屋武兵衛こと近藤武兵衛という者がいた、彼は跡継ぎに先立たれ、身の不幸を嘆くあまり山伏に身をやつし、諸国行脚の旅に出た。
    京都で法然院の万無和尚に出会い深く帰依することとなる。彼は元文四年(1735年)普門寺を川名村へ移し遣迎山称賛浄土院雲心寺と改め、更に翌年に現在地に移転したもので、 この地は志水甲斐守の下屋敷を買い求めたものである。
    当時の本尊は一丈六尺の阿弥陀如来である、しかし実際には座像で高さ約2.4m位である。この本尊は興正寺の大日如来、栄国寺の阿弥陀如来と併せて名古屋三大仏と言われている。
    建中寺の大基上人の発願で京都の仏師山本茂祐が製作し、文久三年(1863年)に完成した。
    それまでの本尊は胎内仏として内に収められている。この仏像は同寺の本山、京都知恩院の阿弥陀堂本尊を模したものと言われ寄木造りの像に金箔をほどこした見事なものである。
    文久4年に開眼供養がなされ常行念仏一千日の法要がなされた。
    当時の金で300枚を要したと伝えられている。
    この大仏は大変美しいということで昭和32年名古屋市文化財の指定を受けており、大仏が鎮座する本堂は明治19年に改築され京都の法然院を模したといわれる。

    明治維新まで檀家はなく近藤家の縁続きで富豪の岡谷家・伊藤家(松坂屋)や佐々部家など、名古屋十人衆と言われた篤信家たちの寄進により守られてきた。

  • 勝軍地蔵

    この像に祈れば戦に勝つとされ、鎌倉時代以後、武家の間で信仰されていました。その姿は地蔵菩薩には大変めずらしく、身体に甲冑を着け、軍馬にまたがった姿をしています。必勝祈願の他、火伏、防火のご利益があるとされています。当時においても、そのご利益を頂いています。第二次世界大戦中、当寺の北側(現トヨペット本社)にあった軍服をはじめとした紡績工場に焼夷弾が落とされ、周りに火の手が広がりました。
    当時に駐屯していた日本大学の学徒兵らが池の水をバケツリレーでの消火活動を始めた時のことです、ふっと風向きが北へ反転し、本堂、境内のみならず、この町内すべてが消失を免れたということです。この時、本堂内に勝軍地蔵が安置されてました。

    #必勝祈願の「勝守り」をお求めできます。